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海の総合学習テキスト

 事業名 帆船から学ぶ海と日本
 団体名 大阪港振興協会 注目度注目度5


[寄港地(5)]下関港と角島(つのしま)
下関絵図
(下関市立長府博物館蔵
(拡大画面:180KB)
下関絵図は江戸時代後期の下関の風景である。帆を降ろし沖がかりしている大・中型の弁才船や荷の積み降ろしで行き交う小船、町並みの様子など当時のにぎわいがよく描かれている
 
●下関は北前(日本海)の玄関口
 西廻り航路において下関は、荒波の日本海と穏やかな瀬戸内海の境目にある港である。北前船頭たちは、夏が終ると二百十日(にひゃくとおか)(9月1日頃)の台風シーズンまでに、日本海から瀬戸内海に逃げ込もうと躍起になる。下関到着の目安は、北45kmほどのところにある角島を通過することであった。角島通過は船乗りたちにとってよほど嬉しかった(うれしかった)ようで、佐渡・宿根木(しゅくねぎ)の船乗りたちは、通過を祝い初航海の若者に「津ノ島(つのしま)(角島)舞(まい)」を命じた。津ノ島舞とは、細いシュロ縄で鉢巻き(はちまき)をし、素裸(すっぱだか)になり、御幣(ごへい)を持ち「めでたい、めでたい」といいながら船中を回るものであったという。
 下関は日本海だけでなく九州の産物も集積する。さらに江戸時代に朝鮮通信使も8回ほど滞留している。物資だけでなく日本中の情報も、まずこの港に集ってくる。後に「関の豪商」と呼ばれた商人たちの富と情報は明治維新の立役者たちを支えるものともなった。
 
角島灯台
(写真・(社)燈光会蔵)
角島灯台はイギリス人技師ブラントンにより設計され、明治9年(1876)に完成した洋式灯台である。日本海では初めての洋式灯台で、角島が日本海航路で重要な位置にあったことがわかる。当時の光源はドーテ式と呼ばれる灯火で、落花生の油から石油に変って間もない頃であった。当初からレンズを使用していた
 
The Role of Shimonoseki
Shimonoseki Port was located on the boundary between the rough Japan Sea and the calm Inland Sea of Seto. The sailors of the Japan Sea were pleased and danced in celebration when their ship passed the island which was thought to be the entrance of Shimonoseki Port.
Information as well as goods gathered in this port from West Japan and even from Korean Peninsula, So the wealth and the intelligence of Shimonoseki merchants supported the Meiji Restoration that had given a great change to Japan.
 
[寄港地(6)]大阪―1
※図は現在の海岸線
 
広島藩の蔵屋敷
(拡大画面:371KB)
 
●大阪の蔵屋敷(くらやしき)・諸国廻米(かいまい)の集積地
 江戸時代、日本は徳川幕府を中心に全国が「藩(はん)」に分けられ統治されていた。いわば小さな合衆国のような仕組みになっていたのである。諸藩では産物を売らなければ外貨がえられないため、地元で生産した米などを消費都市である大阪に運び、換金して財政をまかなっていた。
 この米を廻米と呼び、諸藩では食べる米を節約してでも廻米を増やそうとした。このため、大阪の淀川下流域、中之島や堂島には、送られてきた米を収納するための、諸藩の蔵屋敷がずらりと並んでいた。堂島には、その米を売り買いする米市場が開かれていた。当時は農産物を中心とした経済であったが、貨幣が大きく力をもつ時代になっていたのである
 
●蔵屋敷の構成
 敷地約3000坪(1万m2弱)、米を荷揚げする船寄せ場がある。各建物は役人の住宅、米蔵、米売り場などである。米蔵は11棟、720坪(2400m2弱)、管理は留守居役という武士が行っていたが、米の売却などの運営は商人に任せていた。
 
●鴻池家による運営
 江戸時代、各藩は国元と江戸藩邸以外に屋敷を所有することができなかったため、蔵屋敷は借家であった。広島藩の場合、屋敷名義は江川庄左衛門、運営は藩の財政管理も兼ねている鴻池(こうのいけ)善右衛門であった。鴻池家は九州・瀬戸内海の大藩の財政管理を兼ねる巨大な両替商であった。
 
●蔵屋敷と米市場
 蔵屋敷に送られてきた米は、入札の資格を持つ米仲買という商人たちに売却する。米仲買は米の代わりに米切手という証書を受け取り、この証書を堂島の米市場で米問屋に売り渡す。この2段階の売買のなかに、先物取り引きが複雑にからみ、米の相場が決められていた、大阪はさまざまな商品の値段相場の元方(もとかた)であり、米の相場はその基本となるものであった。
 
Rice Gathered in Osaka
In the Edo Era, the country of Japan was divided into Han (a feudal clan) under the Tokugawa government. It was so to speak a system of small united states. From each clan surplus rice was brought to Osaka and cashed so that the money could support the finance of it. In Osaka there was an array of granaries of many clans.







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更新日: 2019年11月30日

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