1996/02/04 朝日新聞朝刊
学校を変えるのはだれか(社説)
私たちめがけて「つぶて」が飛んでいる。父母から、世間から、何より子どもたちからの「つぶて」が心に深く突き刺さる。しかし、逃げるわけにはいかない。
そうした言葉には、あきらかに瀬戸際の覚悟がにじんでいた。日教組の教育研究全国集会の大きなテーマとなった「いじめ・不登校」の討議を聴いて、先生たちの覚悟のほどが新鮮に響いた。
これまでなら、いじめ発生の原因をめぐって、父母や地域の教育力の不足から統制的な教育行政まで、他に責任をもとめる議論が前面に出てきたことだろう。今回、それがめっきり減った。それはそれとして、まず教師にできることはなにか。改めて自ら問い直し始めたこの議論を、遅過ぎるとはいうまい。
多くの報告と発言には、着実に重ねられた実践の裏打ちがあってこその、深みが出てきたことも確かだ。
いじめ自殺に象徴されるような学校の八方ふさがりに、ひとつの出口があるとしたら、それは現場である学校そのものを土台から変えることではないか。そうした見方が、やっと聞かれるようになった。
いまの「学校」という容器の形に合わせて、子どもたちを押し込もうとする努力は、明らかに失敗してきた。明治以来、今日にいたるまで、本質的に引き継がれてきた学校の体質が直らないかぎり、子らの「反乱」は続くにちがいない。
いじめ自殺一つとっても、この十年来、文部省の「指示」にもとづく地方教育委員会と学校の方策は実効をあげえなかった。この事実は、これまでの「学校」を疑うべしと教えていることにほかならない。
その学校を変えるのはだれか。きわめて平凡だが、重い結論に行き着く。学校の変革を担い、その突破口を切り開くのはやはり先生をおいてほかにない。
教室では創意工夫をこらした改革の試みが始まっている。「子どもは十人十色」と思い直して「自分は自分なんだよ」と子どもたちに語りかける先生たち。自分で課題を見つけ、自分で解決への道筋を探っていく総合学習や、学校五日制を授業改革のてこにする事例も、成果を重ねている。
ここには、学校像の変革がある。教えこむのではなく、子らが自分で学ぶことを手助けすることへ。それは、子どもと一緒に学んでいく教師像への転換でもある。
肥大化した学校の機能をスリムにしよう、という主張が財界などからも目立つようになった。子どもを旧来の学校のしばりから解き、また先生に教育行政の画一的統制からの自立を取り戻すものとなるなら、異論はあまりないだろう。
近年の学校論が、ともすると教師不信を出発点にしていることは、不幸なことだ。先生は自信を失い、外部に対してまず身構えてしまう気配さえある。本音を語りはじめた先生たちが、明日から戻る学校で、その能力と情熱をただしく生かしきれるのかどうか、懸念もある。
今回の教研集会には、一九五一年の第一回集会以来、絶えてなかった文相からのメッセージが届いた。文部省の政策課長もシンポジウムに出席した。テーマは「変えよう学校―未来へ」だった。子どもたちを置き去りにした両者の長年の対立に終止符を打ったというのなら、双方とも、まず子どもの身になってみることだ。
「学校があるんやったら、生まれてこんほうがよかった」と子どもたちに言わせるような、そんな学校はいらない。かわって新しい学校像をつくりあげてほしい。
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