1985/04/18 朝日新聞朝刊
妥協のいす 大国の思惑が絡む(国連・40年の光と影:5)
「あなたは事務総長になりたいか」「事務総長に選出される可能性は?」
ワシントンのシンガポール大使館。トミー・コー大使(47)に、安保理事会問題のあと、生ぐさい質問をぶつけてみた。
「私は事務総長になりたいとは思わない。国際社会から過度な期待をかけられながら、与えられる権限は極めて少なく、フラストレーションの固まりになるのがオチだ」
「かりに、私がこのポストに興味を持ったとしても、事務総長にはなれまい。ソ連は、私がアフガニスタンやカンボジアの問題で(反ソ的に)働きすぎたとして拒否権を使ってくることが明らかだからだ」
コー大使はさらに「五大国、とくに米ソ両大国のおぼえがめでたくないと、どんな有能な人材でも、事務総長になれないのが現実だ」とつけ加えた。
〇米ソの信任が必要
「国際平和と安全を脅かすと思われる事項に、安保理の注意を喚起する権限」(国連憲章99条)のほか、国連事務局の長として、また総会、安保理、経済社会理事会などでも重要な任務をゆだねられる事務総長には、国際連盟時代のそれと比較して大幅な活躍の場が与えられているといえる。ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相が初代総長の下馬評に上がったことを見ても、国連発足当時からこのポストに「紛争調停官」としての期待が寄せられていたことがわかる。
しかし現実には、国連が四十年間に選んだ五人の事務総長は、国際的には無名に近い人ばかりだ。大国の思惑やエゴで「本命」や「対抗」が消え、最終的に登場してくるのは“妥協の産物”にほかならなかったからである。
初代総長選で有力視されたのは米、英が推すレスター・ピアソン(カナダ)と、ソ連が支持したスタノヘ・シミック(ユーゴスラビア)両外相で、一部ではアイゼンハワー将軍の名もあがっていた。だが、調整がつかず、トリグブ・リー氏(当時50歳、六八年十二月、72歳で死去)におハチが回った。
〇本人にも打診なし
五三年三月、安保理は二代目総長として、スウェーデン外務次官、ダグ・ハマーショルド(当時36)を推薦したが、本人は「まったく寝耳に水。事前にどこからも打診がなかった」と、このニュースをなかなか信じなかったそうだ。ピアソン氏のほかロムロ・フィリピン外相の名が高かったが、“消去法”で脱落した。
ハマーショルド事務総長は六一年九月十八日、乗機DC6B機が北ローデシア(現ザンビア)の山林に墜落し、同乗の十五人とともに非業の死をとげ、後任にアジア人として初めてビルマ国連大使、ウ・タント氏(当時52、七四年十一月死去)が登場。
第四代総長選出に当たって、米国はマックス・ヤコブソン・フィンランド国連大使、ソ連はクルト・ワルトハイム・オーストリア国連大使、中国は第三世界代表としてチリの銀行家、フェリッペ・エレラ氏をそれぞれ支援。ソ連の執ような反対でヤコブソン氏が落ち、結局ワルトハイム氏(当時52)に落ち着く。
〇「無難さ」で急浮上
ペレス・デクエヤル前国連事務次長(当時61)が八一年十二月、安保理から第五代総長として推された時、彼は故郷ペルーの浜辺にいた。三選を狙うワルトハイム氏には中国が断固反対し、第三世界から支持を集めたサリム・タンザニア外相には米国が拒否権行使。安保理で十六回の秘密投票が繰り返されたが決着がつかず、六、七番目と見られていた「最も無難」なデクエヤル氏が急浮上した。
八六年末に任期切れとなるデクエヤル氏の後任をめぐって、国連内部では早くも事前運動の動きがある。いまのところデクエヤル氏の再選が有力だが、アフリカ・グループは独自候補を立てる構えを見せている。
だが、彼らも「赤紙」にノーといわれるとおしまいだ。安保理の投票で非常任理事国の投票用紙は白なのに対して、拒否権を持つ常任理事国は赤である。
(ニューヨーク=久保田特派員)
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